漫画と文化について

第一回卒論ゼミレジュメ

菊地史子

テーマ設定と目的:まず、一番自分の生活において身近で、好きなものをテーマにしたいと思った。そこで漫画が頭に浮かんだ。私は漫画をすでにそこにあるものとしていつも手にとって眺めたり読んだりしていたわけだが、今ある漫画には、どのくらい歴史があり、今までどのような変化をしてきたのかを知りたいと思った。また、日本人は漫画などをどのように捉えているのか、文化としては受け入れられていると思うが、その意識のレベルはどのくらいなのか、ということも知りたいと思う。

 

我々の生活の一部になっている漫画。ストーリー性のあるものだけでなく、1枚の絵の中に風刺を盛り込んだものなども新聞でよく見かけるが、それも漫画である。

日本の漫画はいまや世界中で読まれている。世界のどのようなところで、どういった漫画が人気なのか、漫画は日本の文化であるといえるかどうか、などを調べていきたい。

また、欧州でも漫画は文化である[1]という。この場合の漫画の種類、日本との漫画の比較などをしていくのも面白いと思う。

 

漫画を中心にいろいろ調査していき、文化とはどのようなものか、人間の生活においての文化の必要性、今の日本にとっての文化と言えるものは何かなどを最終的な結論に出来ればと思っている。

 

漫画[2](1)大胆に省略・誇張して描き、笑いを誘いながら風刺や批評をこめた絵。戯画。
カリカチュア(事物を簡略な筆致で誇張し、また滑稽化して描いた絵。社会や風俗に対する風刺の要素を含む。漫画。戯画。風刺画。カリカチュール。)
(2)
絵または絵と台詞(せりふ)によって表現される物語。
「四コマ」「少女
(3)
気の向くままに描いた絵。

 

文化:(1)culture〕社会を構成する人々によって習得・共有・伝達される行動様式ないし生活様式の総体。言語・習俗・道徳・宗教、種々の制度などはその具体例。文化相対主義においては、それぞれの人間集団は個別の文化をもち、個別文化はそれぞれ独自の価値をもっており、その間に高低・優劣の差はないとされる。カルチャー。
(2)
学問・芸術・宗教・道徳など、主として精神的活動から生み出されたもの。
(3)
世の中が開け進み、生活が快適で便利になること。文明開化。
(4)
他の語の上に付いて、ハイカラ・便利・新式などの意を表す。
鍋」

 

第2回卒論指導(4/26

菊地史子

漫画・諷刺画が大衆化していった背景

 

漫画・諷刺画が広く大衆の心を動かすようになったのは、いつからだろうか。それを考えるには、大衆に浸透していった背景について考えていったほうが分かりやすいと思う。

 

18世紀のヨーロッパ、漫画・諷刺画は銅版画による表現が主流だったが、それにはコストも時間もかかった。そのような中で、18世紀末にドイツで新たな版画技術が発明される。石版画技術である。これによって、時間・コストが大幅に改善され、量産が可能になった。この技術はイギリスで実用化が進み、ナポレオン戦争が終わる1815年にはフランスにも広まり、その技術をジャーナリズムに導入しようという考えが生まれた。

 1830年代、ヨーロッパではジャーナリズムの一端として「諷刺新聞」なるものが多くの市民に評判を呼ぶようになった。ルイ・フィリップ王が即位してからのフランスの行政権力に対する不満や社会不安を諷刺画で表し、その中でも多くの市民に支持を得たのは、フィリポンが刊行した「カリカチュール」であった。石版画技術に目をつけただけでなく、諷刺する対象のルイ・フィリップにちなんだアイデアが成功の起因だった。王の顔の形が西洋梨(ポアール=poireには「間抜け」「とんま」の意味もある)に似ていることから、王の顔を梨の形で描く諷刺画を画家たちに依頼したのである。この梨頭の諷刺画はたちまち読者の反響を呼び、「名物」として「カリカチュール」は部数を拡大していく。フィリップ王を槍玉にあげることで、多くの民衆の支持を得たのである。

 

漫画・諷刺画とは、言うなれば、まだ民衆の意見というものがなんの価値も持たなかった時代における、絶対的な権力に対する民衆の意見を、集約し、痛烈に表現する手段である。そして、諷刺画という絵の持つ情報が大衆を動かす原動力になる時代でもあった。そのためには、多くの人に見てもらい、受け入れてもらう必要があったのは言うまでもない。「カリカチュール」がフランスの民衆の中に深く浸透していった理由の一つは、それらが、人口の多数を占める字の読めない階層にも、政界や社会で起きていることを知らしめたからといえるだろう。

市民が立ち上がり、権利を主張するための原動力の一端を諷刺画が担っていたのはほぼ確実だろう。その諷刺画を民衆にまで浸透させていったのは、印刷の技術革新や時代である。絵という表現方法に、社会に対する不満、権力、体制に対する批判・嘲笑を付加し、量産という視点から考えて、簡略化、誇張が加わって成立したのが、ヨーロッパ近代の諷刺画といえる。

 

商品としての漫画

 「近代漫画」は近代社会が生み出した漫画をいみするが、それは版画ないしは印刷による複製美術として表現され、大衆に購入してもらう(=支持)ことを目的に生み出された。漫画という美術は、肉筆にせよ版画にせよ印刷にせよ、商品として売るという発想が、その大衆化に大きくつながった。近代漫画の発展の歴史は、商品としての漫画がいかに大衆に浸透し受け入れられてきたか、という歴史である。

 

日本での漫画

 

日本で「漫画」が大衆化していったのはいつからであろうか。

 大衆化すること、それは商品としての漫画、複製技術としての漫画という発想がいかに大衆に浸透していくことかということを述べた。その点から考えると、18世紀初頭、大坂()で出版業者の手によって出版された木版刷りの「鳥羽絵本」あたりがその本格化の始まりであったといえる。その他にも、さまざまな戯画本、「北斎漫画」、戯画浮世絵、戯画入り瓦版などが生み出され、漫画は確実に日本人の生活の中に浸透していった。しかし、ヨーロッパと同様に、真に大衆化のきっかけとなることは、ジャーナリズムの中に発表の場を得るということであった。漫画をジャーナリズムの一端として捉えるといった考え方が、開国、イギリス人の来日とともに、日本に流れ込んできたときからであった。日本でその先頭を切ったのが、イギリス人のチャールズ・ワーグマン(18321891)が横浜居留置で文久2(1862)に創刊した「ジャパン・パンチ」である。

 この「ジャパン・パンチ」娯楽に飢えた居留地の外国人の間でたちまち人気を得、その評判は日本人にも伝わっていく。日本に誕生したばかりの新聞「江湖新聞」「横浜新報もしほ草」などに漫画が載るようになる。

 では、日本の漫画が「諷刺」機能とくに「権力への諷刺」機能をもっともダイナミックに発揮した最初の時期はいつであろうか。それは自由民権期であろう。風刺漫画を短時間に大量に生み出すことの出きり漫画ジャーナリズム、すなわち漫画雑誌がこの時期に勃興したからである。それまでは考えられなかった短時間に数千部単位で雑誌を印刷できる技術(亜鉛凸版印刷)が開発され、さらにはそれを販売できる交通網や郵便制度が全国的に整ってきたからであった。また、自由民権運動の高揚は、政府の言語弾圧を跳ね返すだけの勢いを生み出し、新しい国家体制を決するために漫画も積極的な意思表示に関わったのである。

 

自由民権運動…明治前半期に起こった藩閥専制政治に対する民衆の政治改革運動。明治7年、板垣退助・後藤象二郎・江藤新平らがヨーロッパ自由主義思想の影響を受けて民選議員設立建白書を左院に提出したことが、自由民権運動の始まりだといわれている。自由民権運動は、いわば言論による反政府運動であった。漫画も大いにその言論戦にかわったのである。

中心媒体…「団々珍聞(まるまるちんぶん)(団々社)である。その内容は、諷刺画・茶説(社説)・狂詩・狂句・狂歌・都々逸・川柳などで構成された、藩閥政治への批判に満ち溢れていた。とくに諷刺画は多くの人に共感を与えて人気を博したが、硬質をも諷刺の対象にするようなその鋭い批判精神は、しばしば政府による弾圧を招いた。

 

<参考文献>

「漫画の歴史」 清水勲著 岩波新書 1991

 

 

 

今日の日本では、戯画、諷刺画の類を「漫画」と称している。「マンガ」「まんが」と書くこともある。しかし、この言葉が大衆に定着したのは、昭和に入ってからであるという。その意味では‘昭和語’といってもよい。大正時代の人々で「漫画」という言葉を使ったのはまだ特殊な人々であろう。マスコミ、出版関係の人々で、「漫画家」「漫画雑誌」「漫画本」といった言葉もそういった人々の間で使われ始めていたに過ぎない。

 江戸時代にも「漫画」という言葉はあった。今使われている意味で漫画とは少し違うようだが。

漫画の戦後の潮流

 



[1] 文化としての欧州漫画http://jpn.cec.eu.int/japanese/europe-mag/1997_0708/buttonsp19.htm

[2] http://japanese.asinah.net/ja/wikipedia/_/_c/_c_.html